未来志向に気をつけろ

 『サボる哲学』(栗原康)がおもしろくて、一度読み終わったあと、ちびちび読み返したりしている。「いきなりステーキ」に行きたくなったり、麦とホップ〈黒〉を飲んでみたくなるが(どちらも経験がない)、別にそういう本ではない。
どんな本かというと、えーと……、簡潔に要約できればいいのだけど、いま頭痛がしていて頭が回らないので(本当に頭痛のせいか?)、まえがきから引用する。


――中学時代から高校進学を意識させられて、高校にいったら大学へ。大学にいったら就職だ。将来、カネを稼げるようにならなければならない、もっと稼げるようにならなければならない。みんががそうしているから、そうするのがあたりまえ。そうしなければいけないとおもわされる。幸せの一本道だ。そのレールからドロップアウトしたら人生は終わり。就職してからは、よりよい家庭を築くために、よりよい老後を送るために、会社のためにはたらかされる。なんどかあれやりたい、これやりたいとおもうことはあっても、またこんどにしようとあきらめる。あとはその繰り返しだ。将来のために、ぼくらのいまが犠牲になる。人生が将来に直結させられる。労働とは「時間による支配」にほかならない。


副題は「労働の未来から逃散せよ」。労働という「時間による支配」から自由になること、それがテーマだ。


工業生産中心の時代、「よき労働者」をつくるため、学校や工場など一つの空間に集めて、規律を徹底し、何が「正常」かをその身体に叩き込むという方法がとられた。ミシェル・フーコーである。規律訓練による自発的服従。フーコーは以前に読んだけど、残念ながら半分も理解できなかった。

子どもの頃に学校でさせられた「体育座り」もその一環であるとどこかで聞いたことがある。自ら身動きがとれない状況をつくらせ、先生などの話を黙って聞くという訓練で、それを繰り返すことで、それが自然な状態と感じられる身体をつくっていく。
もちろん、学校の先生が「よき労働者」をつくろうだなんて思っていたわけではない。勤勉、努力、真面目、従順、協調性、我慢強い。このような、社会で評価される要素を身に着けさせることが子どもにとっても良いことであると信じられていたということだと思う。

ある面では幸せだった時代かもしれない。労働が苦しいものだったとしても、よき労働者として一生懸命働けば、給料も右肩上がりで伸び、マイホームにマイカー、便利な家電製品に囲まれて、老後は年金をもらいながら悠々自適。幸せな人生のイメージが共有され、またその道筋がはっきりしていた。


ところが、こうしたいわゆる資本家と労働者のウィンウィンの関係は1970年代頃から壊れ始める。つくってもモノが売れない。原価が高くなって儲からない。
ならば、利益を確保するために生産性向上だ。よりいっそうの機械化とデジタル化、リストラ、規制緩和、非正規雇用の拡大、アウトソーシング。その結果、格差が拡大の一途をたどることになる。

現在は、労働環境はますます厳しく、不安定になり、激しい変化に常にさらされている。こうしたなかでは、工業時代の「よき労働者」は時代遅れ、経営側にとってもこうした人材は役に立たない。そこであらたな労働者像がつくられる。仕事への意欲が高く、変化に柔軟に対応し、自分の頭で考え、積極的に動き、イノベーションを起こすような人材。真面目にやっていればいいわけじゃない、目に見える成果を出してください。

これってすごい大変だ……。

本気で実現しようとしれば、長時間労働になりがちだし、タイムカードに打刻される(もうカードなんてないか)労働時間が法律で規制されていても、睡眠や休暇すら成果を上げるために必要なものと位置付けられて、つまりは24時間356日を労働に捧げなければならなくなる。
この背後には、メディアを通じて煽られ続ける不安がある。仕事を失ったら、食べていけない。社会から落伍者とみなされる。みじめな生活を送ることになる。だから、必死で働かないといけない。
一生懸命やれば報われる、という一時代前の考えよりネガティブな要素が強い。

『サボる哲学』で指摘されているのは、不安定な未来ゆえに、そしてそこから来る不安ゆえに、極度の未来志向になってしまうという点だ。
変化が前提になるから、今現在の能力ではなく、未来の可能性をアピールしなければ雇ってもらえない。いま働いている人だって、リストラや降格の対象にならないように、常に自分を向上させ、可能性を広げなければならない。
資格取得、スキルアップ、体形の管理、役に立つ読書(今日から使える超速!仕事術、みたいな)。スピーチ、プレゼン、聞く力に雑談力。ボランティアの経験も積んでおこうか。どんなにくだらない無意味な仕事でも目に見える成果を出して、上司に会社にアピールして「使える」社員として評価してもらわなくちゃ。

現在が、未来に取り込まれていく。

あらゆる行動に目的を問われる。
それ、何の役に立つんですか? 
もっと言うなら、それでいくら稼げるんですか? ということだ。

いま、僕は無職だけど、それも未来へのひとつのステップとして語ることになる。
たとえば、久しぶりに会った友人に「いま何してるの(つまりはどんな仕事をしているの)?」と聞かれれば、無職でただブラブラしてるとも言えず、次の仕事に向けての充電期間だとか、そういう言い訳を添えるに違いない。

ミヒャエル・エンデが『モモ』の物語に託して、50年も前に警鐘を鳴らしていたことが、いま、より一層過激なかたちで進行している。


将来に囚われた身体と心をどう解放するか。時間の支配からどう抜け出すか。

これは難問だ。この支配には目に見える暴力が介在しているわけではない。
上司は「早く帰れよ」「無理するなよ」というような言葉を掛けてくるし、会社だってノー残業デイとか、時間になったらPCを強制シャットダウンするとか、有休消化を必須とするとか、負担を減らしましょう(でも成果は出してね)という方向を打ち出している。
無理やり強制されているわけではないのに、自分から進んで囚われの身となっている(本当は、自発的にやっているように思わされているだけなのだけど)。

自己の意識による管理を取り戻す、ではきっと解放されない。
一生懸命働くのが大人だ、仕事を失ったら人生転落するぞ、負け組になったら惨めだぞ、と四六時中聞かされていればボディブローのように効いてくる。つい、「頑張らなきゃ」「スキルアップしないと」「資格を取ろう」なんて思ってしまう。

では、どうすればいいのか。

著者の栗原康は「やっちゃえ」と繰り返す。
目的意識や「こうしなければならない」という義務感や切迫感を捨て、身体がおのずと動くにまかせろ、と。

キャリアデザインとか、人生設計とかをしない。
やりたくないことはやらない。
ワクワクする、その気持ちに身をゆだねる。


そういえば、岡本太郎も同じことを言っていた。

――人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。


ドカーン。


(2021年12月11日)

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