マルクスという発見

毎年のことだが、年末に体調を崩す。つい真面目な優等生的ふるまいをしてしまうので、そのツケを年の暮れに払うことになる。
2021年の終わりも例年通り。この記事も12月30日に書き始めたが、結局年をまたいでしまった。

ともあれ、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今回はカール・マルクスについてのお話です。


1990年代後半に学生時代を過ごした者にとって、マルクスの思想は化石のような遺物であり、もっと言えば、危ないから近づかないほうがよいものというイメージが強かったように思う。
なにしろ、1989年にベルリンの壁が、1991年にソビエト連邦が崩壊し、共産主義社会が不自由な全体主義であることが明らかになっていた。それに、僕が大学2年だった1997年に早稲田祭が中止になったのだけれど、それは過激派左翼団体の革マル派と早稲田祭実行委員会の間に深いつながりがあったことが理由であると発表されたと記憶している。
マルクスについては語る価値がもはやないし、口にするべきでもない。そういう認識だった。だから当然、マルクスの著作を手に取ることもなかった。

あれから30、いや25年。2021年の日本は(欧米はもう少し前から)マルクス・ブームと言っていい状況となったのだから、時代が変わったものだと思う。
2021年に読んだ本の中で1冊だけを挙げるとしたら、斎藤幸平の『人新世の「資本論」』を選ぶ。マルクスだ。


以前に働いていた会社の若い同僚になんとも説明のつかない違和感を抱いていたのだが、そのときはヤングとアダルトの年の差ギャップかと思っていた。
しかし、マルクスの用語で分析すると違う説明が見えてくる。

その同僚は素直で真面目な若者で、普段の会話からは温厚で優しい性格が見て取れた。
ところが、仕事となると少々様子が変わってくる。
電話で取引先とお金の話でやり取りをしているとき、かなり厳しい条件を提示しているように聞こえた。僕などは気が弱いので、たいてい取引先が損をしないように話を持っていってしまうのだが、彼はしっかりと会社の利益を確保しようと努めていた。僕が社長ならぜひ雇いたい優秀な社員である。
僕が少し手を抜いたり、いい加減なことをやろうものなら、侮蔑の色の混じった目でこちらを見ながら「佐藤さん、きちんとやってください」などと言われることがたびたびあった。
なぜ、そこまで周囲に厳しい態度をとれるのか、不思議に思っていた。


あらゆるものが商品となり、貨幣に換算される価値を増殖させる資本主義の原理が、僕らの社会や生活を吞み込んでいくことを、マルクスは「包摂」という概念で説明している。(と書いたものの、ホウセツなんて最近まで聞いたこともなかったし、マルクスの書いた文章は難解で良くわからないので、以下は、白井聡『武器としての「資本論」』を参考にしています)

たとえば、職人がしていた仕事を、工場を建てて機械化して労働者に作業をさせるようになるというのは、職人仕事が資本主義の原理に包摂されていく一つの過程とされる。何をどのような手順で、どんな材料で、どのくらいの量を、いつ作るか、そうしたことを職人が決められなくなり、資本家階級が資本の論理(すなわち利益の最大化)によって決定したやり方に従うことになる。こうして、職人の仕事が、資本主義体制のなかに呑み込まれていく。

重要なのは、包摂には無数の段階があり、現在も進行中であるという点で、1980年代以降に主流となった新自由主義によって、この包摂が人間の感性にまで及んでいるというのだ。

(ちなみに、新自由主義(ネオリベラリズム)というのは、規制緩和、民営化、緊縮財政、福祉削減、自己責任、競争原理などの言葉で語られる政治経済思想のことを指す。日本では1990年代以降に主流になり、年功序列や談合などの日本的経営体質が経済成長を妨げているとされ、競争原理による効率化を強力に推し進めることになった。その結果、リストラ、非正規雇用の増加、アウトソーシングなどが進められ、勝ち組・負け組という用語が登場するほど格差が拡大した)

 

 ――新自由主義とはいまや、特定の傾向を持った政治経済的政策であるというより、トータルな世界観を与えるもの、すなわち一つの文明になりつつある。新自由主義、ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。…(中略)…資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そうか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということです。

(白井聡『武器としての「資本論」』より引用)


件の彼は、新自由主義の価値観をかなりの程度まで内面化していると捉えると、周囲への厳しい態度と本人の温厚な性格のギャップに説明がつく。

一生懸命働き、会社の利益を最大化することが、彼にとっての「正しいこと」なのだ。取引先や同僚との人間関係よりも、それが優先される。会社から給料をもらってるんだから、そんなの当然でしょ、と。だから、自分より高い給料を受け取っているのにたいした働きをしないオジサンは許せない。真面目で素直であるがゆえに、時代の主流の価値観を自分のものとしているのだろうが、常に大量の業務を抱え、周囲に対してイライラすることも多く、果たして幸せなのだろうかと思う(余計なお世話だけど)。


そうやって資本の論理に呑み込まれていくこと、すなわち魂の包摂に抵抗するにはどうしたらいいのか。

結局のところ、マルクスを避けていた20代の頃から、ずっと同じようなテーマを抱えて生きてきたような気がする。
いろいろとやってみたけれど、今のところ黒星続き。全戦全敗。

でも、希望はある。
2021年は、古くて新しい武器の発見があった年だった。
それが、コモンである。
エンクロージャー(囲い込み)によってコモンを破壊したことで資本主義は勃興し、現在もなおさまざまな領域で解体が続いているコモン。
それを再生し、資本による包摂からのアジール(避難所、聖域)として守りながら、コモン同士がつながっていくこと。

振り返ってみれば、20年以上前から同様のことが語られていたのに、それを手にとって扱えるかたちにできなかっただけなのだけど……。
僕らは既に知っていることしか発見できない。ずいぶん長い年月を要したけど、ようやく「コモン」を発見した。

2022年はこの発見を具体的なものにする年にしたい。


(2022年1月2日)


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