ドキュメント:開業の日

 2022年3月30日。
験を担ぐことは普段ほとんどしないけど、せっかくなので大安の今日を開業日とすることにした。

個人事業主の開業、なかでも店舗などが特にあるわけではない場合のそれはいい加減なもので、「この日に開業しました」と税務署に届け出ればOKというものだ。開業の事実があってから1か月以内に届け出をするように決められているが、今回は開業日当日に届け出ることにした。
税務署のサイトから開業届(廃業のときも同じ用紙を使う)をダウンロードする。直接入力できるようになっているPDFファイルだが、なぜか漢字が入力できない。仕方ないので、プリントアウトした用紙に手書きで記入していく。名前や住所のほか、従業員がいるか、帳簿の形式をどうするか、など。

屋号を記入する欄もある。が、書かなくても構わない。ただ、屋号入りの銀行口座をつくったりするのに必要になるので記入しておく。
屋号は少し迷った。Good Scenery Commonsにすることも考えたが、せっかく覚えてもらっているキリクイという屋号があるのだし、今のところお金のやり取りが発生しそうなのはキリクイだから、それを引き続き使うことにした。いずれ労働者協同組合か合同会社か、法人にしたいので、Good Scenery Commonsはそのときに使うことにする。

屋号の決め方、と検索すると、たくさんのサイトが出てくる。「どんな職業か、専門分野は何か、見る人にわかりやすいものにしよう!」などのポイントを教えてくれる。うっかり読むと落ち込む。だって、「キリクイ」ですよ。思いがこもっている屋号ではあるけれど、何者であるか全然伝わってこない。舌の長い大型動物みたい。成功したスタートアップは4文字が多いという記事を見つけたので、それだけを読んでおく。いい占いは信じ、悪い占いは見ないようにする。事業をする場合、精神の健康は思っているよりずっと大事だ。

一緒に提出する青色申告ナントカも書いておく。65万円の控除が受けられる。

2009年に開業届を出したときは、2月のどんより曇った寒い日だった。今回は、晴れて暖かい。ソメイヨシノも満開に見える。

確定申告の時期の過ぎた税務署はガラガラだった。紙を提出して、控に印をもらって、5分とかからなかった。駐車場の誘導係の方も退屈だろう。

その足でゆうちょ銀行に向かう。屋号名での口座をつくるためだ。大手都市銀行では、「屋号+個人名」の口座はつくれるが、屋号のみのものはできない。ゆうちょ銀行の振替口座はそれができる(と、以前に教えてもらった)。通帳なし、ATM利用不可、利子なし。お金の出し入れは口座を作った店舗の窓口のみというのは不便に見えるが、インターネットバンキングができるので、数年前からそればかりになっている状況からすれば使い勝手に問題はない。
申し込み用紙に記入し、免許証と開業届の控を提示する。
「事業をおこなっているという証明になるようなものはありますか? たとえばホームページを印刷したものなどです」
「うーん、ホームページはありますが、そのURLを書いてもダメですか?」
「紙でいただきたいんです」
オンラインだ、タッチパネルだ、といろいろ便利にはなったけど、たまに紙じゃないとダメみたいな場面に出くわすと、最近はちょっとホッとする。非効率で、余計な労力がかかることもあるけど、まあそのくらいでいいんじゃないかと。
結局、開業届のみで申請して、審査の過程で必要になればホームページを印刷して提出するということにしてくれた。

事業を始めたので今日から帳簿をつけなければいけない。前回の営業時は3年目くらいから会計ソフトを使っていたし、そのあと5年も休業したので、帳簿のことをいろいろ忘れてしまった。ここであらためて簿記のことを学びなおす必要がありそうだ。専門学校の教員をしていたときに建設業経理の授業を担当していたこともあるが、日々やっていなければやはり忘れてしまう。
参考になる本を探しに近くの古書店へ。経理についての本があるコーナーの並びはビジネス書。集客率UPのマーケティング、SEO対策、一人起業成功のコツ、ブランディングで差別化……、なんとなく気になる文言が躍っている。コモンズの再生とか、市場主義・新自由主義への対抗とか、そんなことを言っているのに、やっぱり気になる。
自分のなかに2つのベクトルが存在する。なんでもかんでも商品化してしまう資本主義とは別の原理で動く世界(=コモンズ)を指向するものと、現にある資本主義経済のなかで成功(とまではいかないまでも少なくとも生き残ること)を求めるもの。
簿記の本だけを買うつもりが、1時間も本屋さんをうろつくことになってしまった。

結局、4冊の本を購入。
1冊は簿記の本。これを買うために来たわけだから。
2冊目はパタゴニア創業者イヴォン・シュイナードの本。2つのベクトルの妥協点がこの本だったのかもしれない。現在の経済システムで成功をおさめながらも、環境問題への取り組みにおいて圧倒的に評価が高い。実態とは異なる見せかけの環境配慮アピールをする企業も多いが、そうしたグリーンウォッシュを厳しく批判し、気候危機に警鐘を鳴らし続けているナオミ・クラインが序文を書いているのだから、パタゴニアは間違いないだろう。
3冊目は、マイケル・サンデルの『それをお金で買いますか』。最新刊の『実力も運のうち』がおもしろかったし、どこまでを市場原理にまかせるのかの議論をしようというテーマにひかれた。平日の昼間に本屋でウロウロするおじさんに対し、「そんなところに突っ立ってないで、とりあえずこれを読みなさい」とサンデル教授が救い出してくれた。
4冊目は網野義彦の中世の歴史の本。かねがね中世にこれからのヒントがあるように思ってきたので、レジに向かう途中で予定外の追加。
最近は実店舗で本を買う機会がめっきり減った。たまに来ると、偶然の出会いがあっておもしろい。AIのおススメばかりじゃ、おもしろくない。

遅いお昼を食べながら、サンデルの本をちらっと読む。どう考えても、これから市場で勝負しようという開業当日にすることではない。その後ろめたさが「ちらっと」に表れている。本読んでたって、だれも給料払ってくれないんですよ。しっかりしてください。
読みながら食べているのは、おそろしく安いイタリアンレストランのランチメニュー。ハンバーグとライス、ドリンクまでついてこの金額。どうやって利益を出しているのだろう。お、起業家らしくなってきた。この粒の小さなコーン。材料費を抑える工夫は当然しているだろう。平日とはいえ、従業員もフロアに1人。人件費も削らないといけないか。
きちんと利益の出るビジネスモデルを確立することが大切らしい。造園業の場合、身体を使うので当然一人の人間ができる仕事は限られる。そこで人を雇い、会社としてたくさんの仕事を受注し、職人の労働から生み出される価値を搾取することで利益額を大きくするモデルだ。もちろん、そういうことがしたくて事業を再開したわけじゃない。
構想すべきは、お金がなくても幸せに暮らせる社会だろう。結局、もう一方のベクトルに戻る。

店を出て15時半くらいに帰宅。
今日は妻が子どもを連れて出かけているので、家でもバリバリ仕事ができる。
神奈川県産の木材の製材見積が届いていた。価格は問題なさそう。あとは屋外での使い方次第。2009年から使っているエコアコールウッドは非の打ちどころがないのだけど、地元産の木材の活用もぜひとも進めていきたいと思っている。
10年以上現場で一緒に作業をしてきた仲間と共同で練っている植栽プランのスケッチも昨夜のうちに届いている。味わい深い水彩画。CADの進歩はすごいのだけど、想像力をかき立てるのは手描きの絵だ。見積書を添えてお客様に提案しないと。

さて仕事にとりかかろう、と思ったが、まずは玄関前に届いている生協の宅配物を、冷蔵、冷凍に分けて収納しなければならない。
そうだ、洗濯物を干すのを忘れてた。
おや、犬の朝ごはんがそのまま残っている。最近、何に抗議しているのかわからないが、朝ごはんを食べないという半分ハンガーストライキ(半スト)を継続している。夕方はだいたい食べる。ただ、あれだけがっついていたドライフードも、そのままでは食べない。ふりかけをかけてみたり、お湯でドライフードをふやかしてみたり、キャベツとか鶏肉を出汁で煮て片栗粉でとろみをつけてかけてやったり。とりあえず朝ごはんを捨てて、ささみ&チーズふりかけをかけたものを用意する。おお、食べた。
仕事の前に、風呂を洗って、夕飯の支度もしておくか。今夜は牛ほほ肉の赤ワイン煮込みにヴィシソワーズ。本当は……、どうしよう。冷蔵庫にレシピが貼ってある。豚肉とブロッコリーのふわふわたまご炒め。これに決めた。ふわふわっていうのがいい。それに、お麩とシイタケのお吸い物を添えよう。冷蔵庫に賞味期限が過ぎた一口サイズのがんもどきがあるから、これもお吸い物に入れちゃおう。
お、もう帰ってくると連絡が。帰ってきたら、すぐがんもどきを、違う、子どもたちをお風呂に入れちゃおう。ここは自営業の特権。毎日だと大変だけど。「すぐ一緒に入ってくれなくなるよ」と妻が冷ややかに笑う。
そして、夕飯。次女はブロッコリーだけを集中的に食べている。本屋で見た「選択と集中」という戦略がこれか。長女はせっせと海苔でごはんをまいている。お茶がこぼれた。ふわふわたまごが床に落ちた。なんで、テーブルに座ってるの? 箸から落下した球体のがんもどきで、お吸い物ファウンテン。ごちそうさまでした。

逃げ惑う子どもたちをつかまえ、説得したり、おだてたり、歌ってみたり、厳しい態度にでてみたり、なんとかして歯磨き完了。
寝かしつけは妻しかできないので、その間に食器を洗う。

時計の針は、22時……。

事業再開の報告を、まずはお客様宛にメールで送信。
このブログを書いていたら、23時も過ぎた。
寝かしつけるつもりが一緒に寝てしまった妻を起こして、お茶の一杯も飲もうか。

ここでエンディングテーマが聞こえてくる。スガシカオを選ぶようじゃあ、芸がない。と書いてしまったばかりに、あのメロディが頭から離れない。でも歌詞が出てこない。フッフッフ、フッフーフー♪
映画化するなら主演は、クリント・イーストウッドがいい。でも、合わないか。ダーティ・ハリーはふわふわたまご炒めをつくらない。ベン・スティラーかな。最後は必ずハッピーエンドになると信じさせてくれるところがいい。

キリクイ、事業を再開しました。


(2022年3月30日)


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