妥協――「まあこれでよい」という思想

最近思わず膝を打った言葉がある。

「石積みは妥協」

空石積みの魅力と技術を伝えることに取り組んでいる〈石積み学校〉のインスタグラムで、外泊(愛媛県)の名人(かな、詳しく説明されていなかったけど)の言葉として紹介されていた。

石積みをするとき、近くにある石で次々と積んでいかなければならない。石を置くたびに「もっといい置き方があるが、まあこれでよい」と思いながら進めていくのだそうである。


庭づくりも妥協、である。
こういうことを、庭づくりを生業とする者が言っていいのかわからないが、事実だから仕方ない。
こういうかたちの植木がほしい、あんな色味の石がほしい、もっと広い敷地でつくりたい、倍の予算がほしい、3倍の工期がほしい。言えばキリがない。
愚痴を言っているわけではない。そういう制限のなかで仕事をするものだし、そうした限界こそが、その庭にオリジナリティを与えるのだから、むしろ肯定的にとらえている。


2009年に開業したとき、「里山ガーデニング」という言葉をしきりに使っていたのは、人と自然が折り合いをつける里山のあり方に倣う庭づくりをしたいからだとあちこちに書いてきたけれど、「石積みは妥協」と聞いて、庭づくりが妥協であるということを言いたかったのだということに気が付いた。
里山で妥協のない仕事はできない。たぶん。
そんなことしていたら、日は暮れ、季節はあっという間に過ぎゆく。人間の都合を貫いている暇はない。折り合いをつけながら暮らす。結果として、自ずからその風景は美しく、どこか懐かしいものとなる。

妥協という言葉の意味を調べると、「相反する利害関係にある二者が互いの意を理解し、自分の主張する条件などを相手のそれに近づけ、双方が納得する一致点を見つけておだやかにことをまとめること。おりあい」とある。思ったよりネガティブな意味合いではない。
人間の側には「こうしたい」という思いがある。一方で、自然の側にも都合がある。太陽は東から昇るし、植物は光を求めて枝葉を伸ばす。双方が「まあこれでよい」と思えるところを見つけておさめるのが、自分のできることだとずっと考えてきた。

世間では、妥協のない仕事こそ、誰もが目指すべきものと思われている。
そういう仕事ができる人のことを一流と称しているようにもみえる。
もし一流が妥協のない仕事をする人だとするならば、僕は一流の器ではない。貫くほどの強い自分はおらず、妥協できるポイントを見つけて、そこにおさめてしまう。意志が弱いとかものぐさとかいうことなのかもしれないが、いまさら自分ではどうしようもない。
肝心なのは、そういう意味で一流ではない、二流、三流の職人を必要としてくれる人がいるということだ。そこなら自分の能力を役立てることができるような気がしている。


キリクイは妥協する。
都市化した社会で人が自然と親しむための装置が庭であるなら、主役は庭に遊ぶ人であり、本質は“ing”のつく「ガーデニング」である(里山ガーデンではなく、里山ガーデニングとしたのもそういう理由だ)。そこに職人のこだわりは不要である。
それに、近代化以降、日本では高度成長期以降、人間の都合を優先させ過ぎてきてしまった。そのひずみが、わかりやすくは環境問題だろうし、実際には社会のさまざまな部分に症状として表れてきている。だから、もうちょっと自然の都合を大事にするように方向転換しなければいけないと思っている。つまり妥協することだ。

まずは、庭で妥協しよう。庭で妥協できたなら、日々の生活でも妥協できるかもしれない。それが社会の仕組みや経済の仕組みの部分での妥協につながり、そうすれば自然としての地球も、人がつくる社会としての世界も、今よりは少しはマシになるのではないかと思う。



余談になってしまうのですが、今回の事業再開で実現したいと思っているのが、お金を稼ぐという課題と、自然とか時間とか人生とか、しばしば利潤の追求と相反するものとの妥協点を見出すことです。そのヒントが協同労働、働く場をコモンズとすることにあるのではないかと今は考えていて、ともかくやってみないことには何もわからないと、そんな気持ちでいます。


(2022年6月13日)






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