労働者協同組合における適正な報酬について

Worker Cooperative 労働者協同組合では「平等」という理念を重要視します。
今回は、労働者協同組合で働く場合に受け取る適正な報酬というものについて考えてみます。

そもそも「平等」な給与体系とはどのようなものでしょう。

それぞれが努力し、自分の持てる能力を発揮し、それによって得られた成果に見合った給与が支払われる。機会は平等に与えられるべきだが、その働きや貢献によって受け取るものについてはそれに見合ったものであるべきだ、というのが、今の社会において優勢な「平等」観でしょう。

こうした「平等」には、いくつかの反論が出されています。

まず成果に見合った給与額を設定するには、的確な評価がなさせることが前提になります。この「評価」というものが厄介です。
売上というような単一の指標では、適正な評価を下すことはできません。残業時間、利益率、目標に対する達成度(立てた目標が適切かもチェックします)、リーダシップ、メンバーとの協調、コンプライアンスに対する意識、リスクマネジメント、積極性……、適切な評価をしようとすればするほど評価項目が増えていきます。そのために、本人も上司も労力をかけて評価に関する書類を書き、半期ごとに面談が設けられ、人事評価のシステムを外注したりして、評価コストがどんどん上がっていくというようなことになります。
それだけのコストをかけても、適切な評価ができているかは疑問です。自分が会社から適正に評価されていると感じている人はどのくらいいるのでしょう。
それに、「あいつがチームにいると不思議と仕事が決まるんだよ」というラッキーボーイとか、「あの人がいると職場が何だか明るくなって仕事がしやすいんだよね」みたいな、数値化できないけど確実に会社に貢献している人を、果たして適正に評価することは可能なのでしょうか。

また、マイケル・サンデルが『実力も運のうち 能力主義は正義か』で指摘しているように、努力とか能力のように個人に属していると考えられているものも、実は、たまたま教育にお金を掛けられる家に生まれ、たまたま周囲に努力を美徳と認めてくれる人がいて……、といった偶然の要素によって与えらえたものであり、それに基づく成果によって人々を評価することは本当に正しいのか疑問が残ります。

人を評価するということが難しく、コストのかかるものであるうえ、その評価項目ひとつひとつもその個人に絶対的に属するものとは言えないとしたら、努力や成果に見合った報酬というのは「平等」という真理を体現するものではなく、成功した人にとって都合のいい物語に過ぎないことになります。


さて、そうは言っても、できるだけ適正な評価を目指し、それに基づく報酬を受け取るべきだと考える人のほうが多数派でしょう。

特に近年、終身雇用・年功序列の日本型雇用(メンバーシップ型)から、職務に適したスキルを持った人材を雇用するジョブ型雇用を積極的に進めていく様子が見られます。これは、終身雇用制度を維持できない企業側の都合があるのだと思いますが、ほかに企業側のメリットとして、①専門的スキルのある人材を確保できる②成果に応じた評価がしやすい――といった点が挙げられています。②を逆から見れば、成果を適正に評価してくれる会社で働きたいと思っている労働者が多いということが言えます。だから優秀な人材を確保できる。確かに、専門的な高いスキルを持っている人にとっては、自分の腕を高く買ってくれる企業で働くことができ、会社に忠誠を誓う必要がないというメリットがあります。社畜とかブラック企業という言葉で表現される世界にからめとられないために、高いスキルを身につけることが効果的な方法であるという考え方は一見すると正しいように見えます。
ただし、残念ながら、変化の激しい世界で価値あるスキルを持ち続けることは非常に難しいことですし、その分野の市場の波の影響をもろに受ける(たとえば「わが社はこの業務からは撤退することになりました」の一言で解雇)ので、ジョブ型雇用のメリットを享受できる労働者はごく一握りになるのではないかと思います。

労働者協同組合という法人であっても、ジョブ型雇用のような組織ができてしまう可能性はあります。それなりに専門的なスキルを持った人が集まって、役割分担を明確にし、それに対する報酬を決めておく。でも、これは労働者協同組合だとはどうしても言う気になれません。
その専門的スキルも才能も、「天与」のものであって、その人の所有物ではないと考えるなら、天から与えられたものをもって個人を評価するのは、とても「平等」とは言えないでしょう。

それともう一つ。ジョブ型雇用のチームは、強者(専門的なスキルが一定以上ある)ということがメンバーになる条件です。もちろん、スキルがなくてもメンバーになれるけど、仕事はたいしてないし、報酬も少ないということになります。対して、労働者協同組合のメンバーは弱者であることが前提です。もちろん専門的なスキルがある人がメンバーになることはありますが、みんな弱者であるという前提からチームをつくっていきます。
もちろんジョブ型雇用的なチームがあってもいいと思います。そういう組織だからこそ成し遂げられる仕事もあるでしょう。プロジェクトごとにフリーランスのプロフェッショナルが集まり、プロジェクトを終えたら解散して、それぞれの仕事に戻っていく。かっこいいし、個人の自由度が高く、しかも質の高い仕事が生まれる可能性が十分にあります。ただ、それは労働者協同組合とは別物であるということは、踏まえておく必要があると思います。


労働者協同組合にふさわしい「平等」な給与体系とはどういうものか、という最初の質問に戻ります。

成果主義はやはりなじまないのではないかと思います。そもそも労働者協同組合は非営利の事業体であり、各自が成果(=利益)を最大化させるために働くわけではありません。そうした働き方をしたければ、わざわざ労働者協同組合というような面倒なものをつくる必要はありません。

では、労働時間数によって報酬を決めるのはどうか。平等であるように思えますが、同じ仕事をAさんは1時間で終わらせ、Bさんは3時間かけてやる場合、Aさんが不平等感を持つことは十分にあり得ることです。また、デザインのような仕事では、その価値を時間単位で評価することは困難です。ピカソの逸話が有名ですが、1時間で描いた図面でも、その背後には何十年という経験があるからです。しかし、こうした価値を適切に評価するのは非常に難しいということはここまで書いてきた通りです。

ここで僕がイメージするのは、各自の希望に応じた固定月給制です。それぞれが、労働者協同組合での労働にかけられる時間(エネルギー)を自己申告し、自分や家族の生活などから必要となる金額を受け取る、というものです。
たとえば、子育てをしている人は労働に時間をそれほど割けないけど、必要なお金は多くなる傾向にあるので、時給換算すれば高い金額をもらうことになるかもしれない。たとえば非常にスキルの高い人で、生活には困らないだけの蓄えがある人は、市場での評価よりずっと低い金額で働くことになるかもしれない。
こういうあいまいな話を気持ちよく受け入れ、納得できるかどうか。これは労働者協同組合を設立・運営していくにあたっての大きな壁になるような気がします。ひょっとすると、受け入れられないという人のほうが、現在は多数派になるかもしれません。でも、困っている人というのは、昨日の自分であり、明日の自分であるという想像力を働かせれば、それほど受け入れるのが難しい話ではないはずです。もちろん、そのためには「ここにつながっていればなんとかなる」と信頼できる共同体に育てていくことが必要です。
それに、労働から得られるものは必ずしも金銭的利益だけではありません。逆に言えば、こういう給与体系を成立させるためには、大前提として、仕事が楽しく、やりがいがあり、誰のかの役に立っているという実感のあるものでなくてはいけないということが言えます。遊ぶように働けるかどうか。

おまけですが、労働者協同組合は全員が経営者でもあるので、労働基準法という雇用された労働者を守る法律の対象にするべきか、協同組合法整備の検討段階でも議論になったそうです。結局、労働基準法が適用されることに落ち着いたわけですが、サービス残業や過労の問題、最低賃金を割り込まないか、メンバー全員で気をつけなければいけない問題があることも付け加えておきます。


「平等というのはこういうことです」というわかりやすい話はありません。真に「平等」であるということはどういうことなのか、メンバー全員が模索し続けること。それが労働者協同組合の存続の条件ではないかと思います。


(2022年9月20日)










人気の投稿